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  • 2013/12/17(火)
  • やりがいのある仕事という幻想 森博嗣

    やりがいのある仕事という幻想

    森博嗣氏の本を読むのは、「すべてがFになる」以来だ。
    実に7年ぶり。

    森博嗣氏は名古屋大学の准教授をしながら、30代後半から小説を書き始めて、作家になったという異例の経歴をもっている。
    大学で教員の仕事をしながら、自分のやりたいことをやるための金策のために小説を書いてみたら、当たったという。実際に国家公務員の年収の30倍くらいの収入が10年間続いたということなので、小説を書く仕事は「大当たり」したと言える。
    47歳で大学の仕事は辞めて、物書きに専念しているとのことだが、専念と言っても一日に働くのは一時間だけで、あとは遊んでいるという。

    元来ものを書くことや読むことが好きではなく、小説家に成った今でも年間に3冊くらいしか本を読まないらしい(笑)
    そういう森博嗣氏のが、「やりがいのある仕事という幻想」というタイトルで文章を書くのだから、内容は大体予想がつく。
    実際に書いていることは、仕事なんてものはお金を稼ぐための手段だ。それ自体が楽しいからやっているわけではない。仕事をしないと食べていくためのお金を稼げないからやっているだけだ。とあっさりとストレートに言ってしまう。
    実に理論的で、理系的にこの事実を言っていまう氏の言葉はかなりズシっとくる。

    印象に残ったところを箇条書きに。

    ・仕事意外にもひとはいろいろな行動をする。沢山のことを考える。そういったものすべてで、それぞれに、いろいろな方法で、社会に貢献できる。また、社会に大きな貢献をしなくても幸せに生きていけるひとだっているわけで、それも自由だと思う。つまりは自分がどれだけ納得できるか、自分で自分をどこまで幸せにできるかということが、その人の価値だ。その価値というのは、自分で評価すれば良い。



    まったくその通りで、自分が幸せかどうかは、他人が決めることでもなく、他人の評価に依るのではなく、自分で判定するものだ。わたしもそう考えている。
    しかし、人間はなぜか「他人の評価」というものを気にしてしまうし、「他人の評価」を求めるために生きているような人間も居る。本当に自由に生きているということは、他人からも評価や干渉をされない状態を言うのだろうと思うので、わたしもいつかは他人の評価を気にしない人間になりたいと思った。

    ・どんな仕事に就いても、社会はこれからどうなっていくのか、という意識を持っていることがとても大切だ。望遠鏡を向けるべきは、その方向である。未来のことを見ない人は、けっして成功しない。



    本書は大学を卒業してこれから社会に出ようとしている人たちを対象として書かれているので、こういった表現が随所に出てくる。この箇所では、見ているところが狭くなりすぎないように、ときどきこの言葉を思い出して、その先の未来がどいうなるかを考えてほしいとということを言っている。
    この言葉は就職前の学生にだけではなく、すでに社会に出ているわれわれにも当てはまる。目先のことに集中するのもいいが、その先になにが待っているのか、未来はどうなるかを予想して行動すべきだ。


    ・人間が関係を結ぶということは、基本的な信用が前提であって、さらにお互いが信頼を築いていくわけだが、最初の出会いの時点ではどうしても過去のデータが気になる。それ以外には、会って話しただけでは人間の性格というものはわからないのだから、仕方がない。



    これは就職後にすぐ会社を辞めてしまう学生向けに書かれた文章で、一度辞めて再就職となるとどうしても不利になることを言っている。「一度辞めたことがある」というデータはどうしも再就職には不利になるので、その不利を見越してから辞めるかどうかを判断したほうが賢明だということだ。


    ・仕事で成功して、お金持ちで、優雅な生活をしていて、地位もあるし、人望もある、というひとは、とにかく頭ばかり下げている。けっして威張っていない。これが強く生きていることはないかと思うのだ。胸を張るというのも、別に勇ましい態度をとるという意味の言葉ではない、態度で示すようなものだったら、いつでも胸くらい張れるだろう。ただ、笑われて、嫌われて、みんなから無視されるだけのことだ。(中略)本当の自信というのは、そうやって表に出して示さなくても伝わるし、わかっている人にはわかる。信頼というものも、そういった見せかけの自信からは生まれない。(中略)本当のプライドというものは、頭を下げ続けて初めて獲得できるものだろう。



    大学教員→小説家となった氏からこのような言葉が出るとは。人に頭を下げるような場面は氏には少ないのではないかと思うが、これは偏見なのだろう。どのような職に就いていても、頭を下げる場面は沢山ある。わたしは医師をしているが、毎日頭を下げてばかりだ。氏が言っている「頭を下げる」ことはとても重要だとわたしも感じるし、本当に頭のいい人は、頭を下げたり道化を演じることが自分のプラスになることを知っているのだと思う。


    ・「最近流行った『ノマドワーカー』については、いかがお考えになりますか?少々憧れますが、自分にはできそうにありません。」という質問に対して。
    ・どうも思わない。個人の自由なのでは。
    単に技術的にそういったやり方が可能になった、というだけだし、単なるファッションにすぎないものだ。そういうスタイル的なものに憧れるのも、若者の特徴だけれど、仕事の本質とは無関係だろう。
    たとえば新幹線のなかで、パソコンを広げて仕事をしているビジネスマンが居る。きっと、ああいうスタイルが格好良いと思っているのだろうな、と僕などは見てしまう。それだったら夜中のうちに仕事をしておいて、新幹線では寝たほうが効率が良くないだろうか、なんて考えてしまう。
    でも、もちろんスタイルは自由であって、個人の勝手だ。(中略)この「スタイルに拘る」というのが一番下のレベルで、その次が「手法に拘る」というものだ。これも、本質ではない。最も大事なことは手法にもスタイルにも拘らず臨機応変に選択できる自由さであり、拘るべきは「結果」である。




    良い答えだと思った。新幹線のビジネスマンの例は、わたしも常々そう思っているし、新幹線に乗っているときまで仕事をしないといけないのは、よっぽど仕事が遅い人間なんだろうなと思ってしまう。
    最後の、拘るべきは「結果」である。という箇所はズシンと来た。全くそのとおりだ。
    プロセスや、いかに頑張ったかを主張する人間は居るが、「結果」が伴っていないと全く意味がない。それが社会というものだ。学生のうちは「よく頑張ったね」と褒めてもらえるが、社会人であれば結果で勝負しなければならない。
    わたしの仕事で言うと、「患者の病気が治る」ことや「寿命が伸びる」という結果がすべてであって、「がんばって治療したけど、治りませんでした。」とか「遅くまで病院に残って仕事をしたけど、書類はできていません。」ということを言う医者は最低だと思う。医者のなかには、頑張っていますアピールをすることが大好きな人種が居て、とにかく家に帰らない。ずっと病院に居て、仕事をするフリをしている。そういった医者が良い医者かというと、決して仕事ができるわけではない。ただ仕事が遅いだけだ。
    わたしは、自分の仕事はさっさと済ませて、仕事が終わったら病院を離れるようにしている。
    こう書くと、わたしは冷淡な医者なのかと思われるかもしれない。実際に冷淡だと思う。けっして人情的な医者ではないと思う。ただ、自分の仕事はきっちりとこなしているつもりだ。



    ・今の世の中は、自分が付き合いたくない人間とは付き合わなくてもよい。人間なんて、個人個人で違っているのだ。みんなが同じタイプで、気持ちが通じあって、仲良しになれる、と思っていたら大間違いで、それこそ狂っているといえる。



    これは、「理不尽な上司が居ます。」という相談に対する回答で、「それなら付き合わなければ良い」という言葉に続けて書かれている。
    われわれが、強固な関係だと思っている集団でも意外にドライで、付き合いたくなければ、離れてしまえば良い、という回答は正しい。
    実際にあなたが今の会社を辞めたからと言って本気で困るひとは居ないだろう。なかには「この仕事はわたしにしかできないから。」と、自己が評価されていると勘違いしている人がいるが、これは本当に勘違いである。嘘だと思うなら本当に辞めてみればいい。あなたにしかできないと思われていた仕事は、他の誰かによっていとも簡単に出来てしまう。
    わたしはある疾患の専門医であるが、わたしが辞めたからといって、誰が困るわけでも無い。
    わたしがやっている仕事は他の医者にだって出来ることなのだ。自分の仕事は自分にしかできないというのは幻想だ。と、自分に言い聞かせていつでも仕事を辞めてもいいと思っている。


    ・宴会では、みんなが笑顔になっているし、自分も楽しい思いができるかもしれない。そういった休息は必要なものと言える。しかし、それは仕事ではないし、ましてやりがいではない。酒を飲んで酔っ払っているときに、仕事のアイデアの一つでも浮かぶだろうか。人間関係が酒の席で築けるなんて言うけれども、酒の席で壊れた人間関係がの方がずっと多い。勘違いしないでもらいたい、と僕は常々思う。



    これは、仕事のあとは酒の席が「やりがい」であると勘違いしている人たちに向けて書かれた文章だ。わたしも同じ意見だ。
    以前に「飲み会に参加することを極力辞めたい」という文章を書いた。
    たしかに、酒の席で人間関係が壊れるという事例もよく聞くし、お酒に酔ったときの失言がまるで真顔で言ったかのように広まったりする(噂は止められない)。
    しかし、森博嗣氏は大学で教員をやっていながら、学生を連れて飲みにいくという行為をやっていなかったのであろうか?とても疑問に思うが、、どうなのだろうか。


    ・ローンはあるけれど、お金に困っていたわけでもない。ただ、会社、家族、子供、ローン、両親、いろいろなものに少しずつ縛られて身動きできなくなっていた。気づいたら、自分の自由なんてどこにも無かった。ただただ、働いて、毎日が過ぎて、酒を飲んで、疲れて寝るだけ、その連続に耐えられなくなるらしい。これは、どこで間違えたのだろうか。



    これは、人生に疲れて自殺してしまった人の例を挙げた箇所に書かれていた。自分で決めたものではなく、「他人が良いというもの」を選択してきた人生の果てに自殺してしまったという例だ。親が決めた大学に進学し、大学の勧める会社に就職し、他人が羨むであろう嫁をもらい、親がしてきたようにマイホームを買う。いままでの人生で、自分が本当にやりたいもの、したいこと、付き合いたい相手を選んだことはないという人生だ。
    他人に決められた人生というのはさぞかし面白くないのであろう。
    自分の人生の選択は、自分でする。他人からの評価は気にしない。というのが原則なのだ。


    ・なぜかいつも楽しそうな人は、そもそも自分からはそんなに話をしたがらない。ただ、楽しそうにしているし、機嫌が良さそうだから、「なにか面白いことでもあったの?」とこちらから聞きたくなる。そうでも無い人というのは、子供の写真を見せたり、仕事の話をしたり、買おうとしているマンションとか、旅行にいったときの話とか、そういうことを自分から言いたがる。僕はいつも聞き役だ。
    (ここで氏の趣味の話になる)本当に楽しいものは、人に話す必要なんてないのだ。人から「いいねえ」なんて言ってもらう必要がないからだ。



    ここも同感で、本当に好きなものは他人に知られたくないし、他人から評価なんてされたくない。わたしは趣味として優待投資をやっているが、他人に話す機会はない。
    家族にも優待のことは話さないが、どうしても家に優待品が届くので家族はわたしが優待好きであることを知っている。
    ブログに優待のことを書いているが、目的は備忘録で、自分の記憶のためにブログに残している。他人に伝えるためではない。
    優待投資が楽しいので、株の勉強をすることは全然苦にならない。大好きな優待投資だけで生活ができたらどんなに幸せだろうかと毎日考えている。


    森博嗣氏のような完全なる理系人間と、わたしは考え方が似ている。こうやって文章にしてみると、「同感だ」と思える部分ばかりだ。
    理系人間には周囲とは仲良くせず、自分の世界に没頭しがちなので、周囲からは嫌われることが多い。ただ、そもそもが周囲からの評価は気にしていない。
    大事なのは自分が自分を好きかどうかということだ。
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